>>1  「思う」か「思わない」かは関係無い。 
 事実として、何を根拠にしているか説明できないにも関わらず「ある」と主張する人がいるということと、 
 科学的には何も確認できていないにも関わらず「脳が停止すれば終わり」と主張する人がいるということだけ。   
 「ない」と結論付けている人が死の間際に心穏やかでないかと言えばそうではない。無神論者でも動揺せず死ぬ場合もあるだろう。 
 だが、「ある」と信じている人が、生存中は確かに存在する「心/気持ち/感情」を生物学的「死」の間際までコントロール出来る場合があるという事は事実だ。   
 「神」「死後生の存在」というものは、結局生きている人間にはおそらく確認しようもない事であるが、 
 「死に際してのセルフコントロール技術」としてまったく無意味でないという事は、歴史的な事実が証明している。 
 (殉教や、宗教的信仰を守るために拷問すら耐えられるという意味において、強力なセルフコントロール技術であると言える)   
 究極的に言えば、自分の精神が存在するという事は、「精神が存在するか?」という思考によって確認できる唯一の事であるが、 
 その他の事象(自分の肉体、家族、友人、社会、世界などすべて)は、自分の精神の中で作り出した幻かも知れず、 
 そしてその実存を「確認」することは「絶対に不可能」であるという事実に照らせば、「神」も「死後の世界」も、 
 今飲んでいるコーヒーも、明和を利用するために使っているPCも、同列であると言うことさえ出来る。   
 結局、「自分が「在る」と思うかどうか」という一点にかかってくる。 
 神も、死後の世界も、PCも、明和も、両親も、友人も、愛も、不満も、世界も、すべて存在しないと思えば存在しないし、存在すると思えば、当人にとっては存在する。
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