キリストは罪により生じる結果だと言い、仏陀は思いによる結果だと言う。
真理の言葉 ダンマパダ(法句経)
1 物事は意(ココロ)に支配せられ,意を主とし,意より成る。
人がもし汚れた意をもって語り,また行えば,
彼に苦が従う事,あたかも車引く牛馬の足に車輪が(従う)如くである。
でも、更に高位の見解を持ち出すようなレベルになると、
因果など無いし、因果など書き換えることが出来るし、消すことさえ出来ると言われる。
イエスが、「汝の罪は赦された」と言った瞬間、らい病が消える。
それは、つまり、この世で時間と言われる過去の行為や想念そのものが、
消されたり、書き換えられたりしたことを意味する。
過去が消えたのだ。
では、因果や過去は何処にあるのか?
何処に書かれているのか?
それは、私という存在が纏う現象レベルの何処かの次元の言葉や記憶でしかないのではないか?
だから、イエスは、それを探し、見て、書き換えたり、消したのではないか?
仏陀やイエスには、それが見えるのではないか?
でも、幸いなことは、神は、最も良き存在であることだ。
イエスは、思い悩むなと教えた。ただ神の国を求めよと語った。
因果のレベルから言えば、原因を消さねばならない。
イエスは、罪という言葉を使い、仏陀はこころという言葉を使った。
神のレベルから言えば、現象の出来事など、舞台の上の物語、芝居にしか過ぎない・・・らしい。
シナリオを書き換えてしまえば、物語そのものが変わってしまう。
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