(批評家にもの申す—伊藤逸平氏との対談)
濱谷:写真の批評家を前に置いて言うのはおかしいけれども、
批評家は、よく僕の写真なんかを見ても、
ここに人のいたほうがいいというようなことをおつしやる。
僕としては人のいるほうも撮っているし、いないほうも
撮っている。
その場合、どつちが自分の意思に沿つた写真であるか
ということで選択するわけですよ。
そこで自分としては人のいないのを出す。
ところが批評家は人のいたほうがいいと言う。
これはアマチュアを指導している先生方にもあるんですよ。
僕なんかとにかく両方を撮っている。
ところがアマチュアの場合、片方しか撮らない。
そうすると、これでないほうがいいと簡単に批評してしまう。
それは非常に誤まらせるんじやないかと思うんですよ。
だから、僕はアマチュアにはいつも両方を撮りなさいと言うんですよ。
その点僕は用意周到だから、必ず一つのものばかり撮ってはいないですよ。
伊藤:安井曽太郎の絵を見て、ここにリンゴがもう一つあればよかつたと
いうようなもんだね。
濱谷:そうなんですよ。
ブレッソンの画集の解説をやつたことがありましたがね。
その解説の中にニューヨークノボストン公園で、
足を投げ出している老人の姿があつて、
その向こうにまた人間がいるのがありましたよ。
あれを見て これは非常に構図がうまいとか何んとか言つていた。
そういう作品に対して構図のことばかりほめている。
これは実にくだらないと思うんですよ。
伊藤:同感ですな。
(中略)
濱谷:・・・ただそういう構図だとか技術の面だけの指導では困る
と思うんですよ。
伊藤:やはり何んといつても大事なのは感動ですよ。
それは内容からくるもので、単に写真ばかりじやなく、
文学でも絵画でも、みんな同じですよ。
濱谷:そういう立場から見てもらうことが大事なんで、
その点ではよく絵かきさんに写真の批評をやらせる雑誌などがあるが、
これは実に愚劣きわまることだと思うんですよ。
絵かきという変な教養でなく、社会人の立場からやればいいんですよ。
(アルス刊「CAMERA」1956年6月号特集より「写真批評は写真を前進させたか」)
返信する