>>110  決定論には否定派だし、因果律は尊重するが、カオスは排除しない。 
 初期値問題、バタフライ効果にもあるように、カオスを排除することは現実には出来ない。 
 俺が想像する自由意志を否定する社会とは、人の命や決定、進歩、調和や平和を無いものとして扱う様な社会ではない。   
 その社会像については定まったような見解は無いが、その序章としてまず意識、自我、知能をどう捉えるべきかについて考えよう。 
 そもそも知能とは何のか。自我とは何なのかと考えた時、それは壮大で絶対的な錯覚ではないかとおもう。  
>>89の画像を見て、左右の球体の色が違うと誰が認識出来るだろうか? もし前提知識がないならば万人が左右の球体の色の違いを認識するだろう。 
 ありありと実感する、同じと分かっていて尚違って見える。 
 つまり自由意志とはそういうものだ。無いと分かっていても、あるとしか思えない。   
 ではこの錯覚はなぜ起こるのか。 
 それは生命が世界を理解するため、未来を予測するために起こる。知能とは世界を正しく理解するために存在しているものではない。 
 ゆってしまえば世界を素早く捉えるための機能で、世界を生き残るために都合よく再構成するための機能だ。 
 そこには沢山の思い込み錯覚、矛盾が内包される。   
 世界を正しく捉えるとはどういうことか。 
 世界を正しく捉えるとは
>>74の画像を見て、AとBを同じ色だと認識する事である。 
 しかしそれだけではない。そこに床も円柱も影も見いださないと言うことでもある。
>>74の画像は色のドットの集合体であって、 
 それ以上の意味はない。そこに円柱や床、影を見出してしまえばAとBの色が違うと錯覚を起こしてしまう。 
 さてこんなものが生命や知能と言えるだろうか。
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