人にものを教えることに優越感を抱くことも、 
 教えられることに屈辱感を抱くことも、どちらもいらない。   
 教えることに優越感を抱いてしまう程度の知識なんて、たかが知れてるし、 
 教えられることに屈辱感を抱いてしまうような人間の向学心も、たかが知れてるから。   
 偉大な知識は、それ自体が偉大なのだから、それを知っているからといって 
 自分までもが偉くなったかのような錯覚は引き起こさないし、 
 また、その知識を体得して自分までもが偉大になれた場合においても、 
 人に教えることにいちいち優越感を抱いてしまうような自信のなさがなくなるから。 
 偉大な知識を人に教えることに優越感を抱くようなことは、原理的にあり得ない。   
 人間、一定以上に向学心が高ければ、人にものを教わる時の一過性の屈辱感よりも、 
 勉強によって自分が成長して行けることへの喜びのほうが勝るはずだから。 
 ものを教わる価値のある人間が、教わる屈辱に囚われるようなこともあり得ない。   
 つまらない知識を人に教えて優越感を抱くような人間や、 
 内心勉強嫌いなのに勉強好きなフリをして人に媚びるような人間は、 
 いつの時代にも一定数は生じるものだが、評価に値しない小人どもとして 
 捨て置かれる場合と、人間の理想像扱いにまでされる場合がある点が異なる。   
 ちゃんとそのような人種を警戒対象にして来た歴史のある日本と、 
 君子扱いにしてしまった歴史が長い中国や朝魚羊で、 
 民度に格段の差が開いてしまっているのも、これが真因である。 
 今は日本も他国のことを言えたような世情ではないから、 
 「人のふり見て我がふり直せ」というほかないが。
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