宗教の存在意義 宗教は何のために存在するのか?
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宗教とは、人間が作った虚構であり偶像であり方便である、それが証拠に宗教は以下の点を的確に説明できないでいる。
💀物質界の説明
これは自然科学が正確に説明している
💀あの世の説明
これもスピリチュアリズムが詳細に説明している
💀霊的な説明
同様にスピリチュアリズムが詳細に説明している
💀精神世界の説明
これも心理学や精神医学が的確に説明している
💀人間世界の説明
これも政治学・経済学・歴史などの社会科学全般が的確に説明している
以上から、宗教が的確に説明している事は何もなく、あるとすれば虚構の世界についての説明だけである。
よってこの世の一切の宗教は、虚構の世界しか説けず偶像を呈示する事しかできない虚妄の存在と言えよう、そしてそれこそが宗教である。
このような虚構・虚妄が憲法よりも上位と考えるのは完全な誤りであり、危険なカルト思考と言えよう。
憲法や法令などの人間が作った決め事も、全ては自然界の摂理よりも下位的な存在でしかない、況や宗教などはそれ以下の存在と言えよう。
💀物質界の説明
これは自然科学が正確に説明している
💀あの世の説明
これもスピリチュアリズムが詳細に説明している
💀霊的な説明
同様にスピリチュアリズムが詳細に説明している
💀精神世界の説明
これも心理学や精神医学が的確に説明している
💀人間世界の説明
これも政治学・経済学・歴史などの社会科学全般が的確に説明している
以上から、宗教が的確に説明している事は何もなく、あるとすれば虚構の世界についての説明だけである。
よってこの世の一切の宗教は、虚構の世界しか説けず偶像を呈示する事しかできない虚妄の存在と言えよう、そしてそれこそが宗教である。
このような虚構・虚妄が憲法よりも上位と考えるのは完全な誤りであり、危険なカルト思考と言えよう。
憲法や法令などの人間が作った決め事も、全ては自然界の摂理よりも下位的な存在でしかない、況や宗教などはそれ以下の存在と言えよう。
死に関わるバイアスは 次の様に作用します。
人は、いつか死ぬという事実に直面すると、それを否定する話を何でも信じてしまい、
「本当は永遠に生きられる」と思い込みます。
これはバイアスの中でも最大のものでしょう。400件以上の研究で実証されていますから。
研究方法は巧妙かつシンプルです。説明しましょう。
まず、あらゆる面で似通った人々を2グループに分けます。
片方には、皆いつか死ぬことを伝え、他方には何も伝えず行動を比較します。
こうすれば、死を意識することで行動にどんな影響があるかを観察できます。
何度やっても結果は同じです。
自分の死を意識したグループは、死から逃れて永遠に生きられる話を信じる傾向が強くなります。
最近の研究を例にあげると、不可知論者、すなわち特定の宗教的信条を持たない人を2グループに分け、
一方には自分が死んだ時のこと、他方には、孤独な時のことについて考えてもらいます。
その後、再び宗教的信条をたずねます。
死後のことを考えたグループは、神とキリストへの信仰を表明した人が2倍にのぼりました。
2倍です。実験前は全員が不可知論者でした。
でも、死の恐怖を与えるとキリストにすがるようになったのです。
死を考えると証拠の有無とは関係なく、信条にバイアスがかかることがわかりました。
これは宗教だけでなく、不死を約束する信念体系なら、どんなものにも作用します。
後世に名を残すことや、子どもをもつこと、 大きな集団の一部として生き続けることを約束する
国家主義にまで作用します。
これは人類の歴史の過程で形作られてきたバイアスです。
これらの実験におけるバイアスの基礎となる理論は「存在脅威管理理論」と呼ばれます。
発想は単純です。
私達が培ってきた世界観、すなわち、この世界や自分の居場所について私達が語る物語とは、
死の恐怖をコントロールするために存在します。
人は、いつか死ぬという事実に直面すると、それを否定する話を何でも信じてしまい、
「本当は永遠に生きられる」と思い込みます。
これはバイアスの中でも最大のものでしょう。400件以上の研究で実証されていますから。
研究方法は巧妙かつシンプルです。説明しましょう。
まず、あらゆる面で似通った人々を2グループに分けます。
片方には、皆いつか死ぬことを伝え、他方には何も伝えず行動を比較します。
こうすれば、死を意識することで行動にどんな影響があるかを観察できます。
何度やっても結果は同じです。
自分の死を意識したグループは、死から逃れて永遠に生きられる話を信じる傾向が強くなります。
最近の研究を例にあげると、不可知論者、すなわち特定の宗教的信条を持たない人を2グループに分け、
一方には自分が死んだ時のこと、他方には、孤独な時のことについて考えてもらいます。
その後、再び宗教的信条をたずねます。
死後のことを考えたグループは、神とキリストへの信仰を表明した人が2倍にのぼりました。
2倍です。実験前は全員が不可知論者でした。
でも、死の恐怖を与えるとキリストにすがるようになったのです。
死を考えると証拠の有無とは関係なく、信条にバイアスがかかることがわかりました。
これは宗教だけでなく、不死を約束する信念体系なら、どんなものにも作用します。
後世に名を残すことや、子どもをもつこと、 大きな集団の一部として生き続けることを約束する
国家主義にまで作用します。
これは人類の歴史の過程で形作られてきたバイアスです。
これらの実験におけるバイアスの基礎となる理論は「存在脅威管理理論」と呼ばれます。
発想は単純です。
私達が培ってきた世界観、すなわち、この世界や自分の居場所について私達が語る物語とは、
死の恐怖をコントロールするために存在します。
不死の物語は、何千もの表現方法がありますが、一見多様に見えても実際にはたった4つの基本形式しかないと考えています。
そして、歴史の中で基本形式は繰り返され、時代ごとの言葉を反映して、わずかな違いが生じているだけだと考えます。
1.永遠に生きる「不死」
1つ目の物語はとてもシンプルです。
死を避けることを望み、自分の体のまま、この世界で生き続けるという夢が最初の最もシンプルな不死の物語です。
信じられないかも知れませんが、実際、人類の歴史上ほとんど全ての文化に、不老不死の薬や若さの泉といった、
私達に永遠の命を与えるものの神話や伝説が残されています。
古代のエジプトや バビロン インドにもありました。
欧州でも錬金術師の著書に記されています。
今でもこの物語は信じられていますが、科学の言葉を使って語られる点だけが違います。
だから100年前にホルモンが発見された時、ホルモン治療で老化や病気を治せると期待されたのです。
今、期待されているのは幹細胞遺伝子操作、ナノ・テクノロジーです。
ただ、科学が死を止められるという発想は、不死の薬の物語に新たな一章を加えるに過ぎず、
文明と同じくらい長い歴史があるのです。
一方、霊薬を見つけて永遠に生きるという発想にすべてをかけるのは危険なことです。
歴史を振り返ると、過去に不死の薬を求めた人々は、共通して皆死んでいるのです。
2.「復活」して生き返る
だから次の手が必要になります。
それにうってつけなのが2番目の不死の物語 ―「復活」です。
その根底ある考え方とは、自分に身体があることです。
私達が死すべき存在であっても、復活して生き返れるのです。キリストと同じです。
キリストは死後3日間、墓の中にいて、その後復活をとげました。
誰もが復活できるという考え方は、キリスト教徒だけでなく、ユダヤ教徒やイスラム教徒にも見られます。
復活を信じる気持ちは、あまりに深く根づいているので、科学の時代に合わせて新たに語り直されています。
例えば人体冷凍保存です。
これは人の死後、身体を冷凍し、テクノロジーが進歩してから解凍し、治療して復活させるのです。
全知全能の神が復活させてくれると信じる人がいる一方で、全知全能の科学者を信じる人もいるのです。
そして、歴史の中で基本形式は繰り返され、時代ごとの言葉を反映して、わずかな違いが生じているだけだと考えます。
1.永遠に生きる「不死」
1つ目の物語はとてもシンプルです。
死を避けることを望み、自分の体のまま、この世界で生き続けるという夢が最初の最もシンプルな不死の物語です。
信じられないかも知れませんが、実際、人類の歴史上ほとんど全ての文化に、不老不死の薬や若さの泉といった、
私達に永遠の命を与えるものの神話や伝説が残されています。
古代のエジプトや バビロン インドにもありました。
欧州でも錬金術師の著書に記されています。
今でもこの物語は信じられていますが、科学の言葉を使って語られる点だけが違います。
だから100年前にホルモンが発見された時、ホルモン治療で老化や病気を治せると期待されたのです。
今、期待されているのは幹細胞遺伝子操作、ナノ・テクノロジーです。
ただ、科学が死を止められるという発想は、不死の薬の物語に新たな一章を加えるに過ぎず、
文明と同じくらい長い歴史があるのです。
一方、霊薬を見つけて永遠に生きるという発想にすべてをかけるのは危険なことです。
歴史を振り返ると、過去に不死の薬を求めた人々は、共通して皆死んでいるのです。
2.「復活」して生き返る
だから次の手が必要になります。
それにうってつけなのが2番目の不死の物語 ―「復活」です。
その根底ある考え方とは、自分に身体があることです。
私達が死すべき存在であっても、復活して生き返れるのです。キリストと同じです。
キリストは死後3日間、墓の中にいて、その後復活をとげました。
誰もが復活できるという考え方は、キリスト教徒だけでなく、ユダヤ教徒やイスラム教徒にも見られます。
復活を信じる気持ちは、あまりに深く根づいているので、科学の時代に合わせて新たに語り直されています。
例えば人体冷凍保存です。
これは人の死後、身体を冷凍し、テクノロジーが進歩してから解凍し、治療して復活させるのです。
全知全能の神が復活させてくれると信じる人がいる一方で、全知全能の科学者を信じる人もいるのです。
3.精神的な「魂」の不死
ただ、「生き返って墓から出てくるという」発想自体がB級ゾンビ映画のようだと思う人もいます。
そんな人達にとって、身体は汚らわしく頼りないので、永遠の命を保障できそうにありません。
だから3つ目の、より精神的な不死の物語に希望を託します。
死後 身体を置き去りにして「魂」が生き続けるという考え方です。
この世の大部分の人が魂の存在を信じており、多くの宗教で教義の中心です。
ただ、魂という考え方が、今の形であれ伝統的な形であれ広く信じられているにもかかわらず、
デジタル時代に合った形で語り直されています。
例えば、身体を残して、精神・本質・本当の自分をコンピュータにアップロードし、
アバターとしてエーテルの中で生きるという考え方です。
4.後世に残す「遺産」
これには懐疑的な人もいます。
科学的な根拠の中でも、神経科学を検討すると、精神や本質や本当の自分は身体の特定の部分 ― つまり脳に存在するからです。
そんな懐疑主義者達は、4つ目の不死の物語 ― 後世に残す「遺産」に安らぎを見いだします。
これは、現世に生きた証を残すという発想で、ギリシャの偉大な戦士アキレスが、トロイ戦争で命と引き換えに、
不滅の栄誉を得ようとしたことに似ています。
名誉の追求は現在も 広く受け入れられています。デジタル時代では名誉は得やすくなっています。
偉大な戦士や王様や 英雄である必要はなく、インターネットとネコの動画さえあればいいのです。
もっと具体的に、生物として子孫を残したいと考える人もいます。
あるいは、国家や家族、部族といった、より大きな集団の遺伝子プールの一部として生き続けることを望む人もいます。
それにも懐疑的な人は、「遺産」を残すことが本当に不死と呼べるか疑っています。
ウディ・アレンの言葉です。
「ぼくは国民の心の中に生き続けるより、自分のアパートで生き続けたい」
ただ、「生き返って墓から出てくるという」発想自体がB級ゾンビ映画のようだと思う人もいます。
そんな人達にとって、身体は汚らわしく頼りないので、永遠の命を保障できそうにありません。
だから3つ目の、より精神的な不死の物語に希望を託します。
死後 身体を置き去りにして「魂」が生き続けるという考え方です。
この世の大部分の人が魂の存在を信じており、多くの宗教で教義の中心です。
ただ、魂という考え方が、今の形であれ伝統的な形であれ広く信じられているにもかかわらず、
デジタル時代に合った形で語り直されています。
例えば、身体を残して、精神・本質・本当の自分をコンピュータにアップロードし、
アバターとしてエーテルの中で生きるという考え方です。
4.後世に残す「遺産」
これには懐疑的な人もいます。
科学的な根拠の中でも、神経科学を検討すると、精神や本質や本当の自分は身体の特定の部分 ― つまり脳に存在するからです。
そんな懐疑主義者達は、4つ目の不死の物語 ― 後世に残す「遺産」に安らぎを見いだします。
これは、現世に生きた証を残すという発想で、ギリシャの偉大な戦士アキレスが、トロイ戦争で命と引き換えに、
不滅の栄誉を得ようとしたことに似ています。
名誉の追求は現在も 広く受け入れられています。デジタル時代では名誉は得やすくなっています。
偉大な戦士や王様や 英雄である必要はなく、インターネットとネコの動画さえあればいいのです。
もっと具体的に、生物として子孫を残したいと考える人もいます。
あるいは、国家や家族、部族といった、より大きな集団の遺伝子プールの一部として生き続けることを望む人もいます。
それにも懐疑的な人は、「遺産」を残すことが本当に不死と呼べるか疑っています。
ウディ・アレンの言葉です。
「ぼくは国民の心の中に生き続けるより、自分のアパートで生き続けたい」
なぜ人を殺してはいけなのか?って質問に日本人はいろいろ答えが出てもはっきりした答えは出ないらしい
欧米人は「神様が殺すなって言ったから」って多くの人が答えると聞く
宗教の存在意義ってそのへんじゃないか
欧米人は「神様が殺すなって言ったから」って多くの人が答えると聞く
宗教の存在意義ってそのへんじゃないか
それに基づいて、自殺についても「自分で自分を殺める行為」として罪悪視する宗教が多いですよね。
ただし、ほとんどの宗教(※仏教を除く)で、自殺を禁じたり、自殺者を「あの世で罰を受ける」
などと断罪して差別したりしているのは、別にそれが「普遍的な事実である」ことの証左ではなく、
宗教というものが、科学や医学が未発達だった時代に生まれた、現代の目で見れば野蛮で未熟な
思想であるために過ぎないと思われます。
仮にそれが「信者の自殺を防ぐための方便」だったとしても、それで自殺を止められなかった場合には、
死者に鞭打ち、自死遺族の苦しみに追い打ちをかけ、さらには遺族への差別感情をも生みかねない、
両刃の剣的な非常に危険な思想だと言えます。
スピリチュアル系の人たちが同様の主張をするのも、単にそれら既存宗教の思想の影響を受けているか、
もしくは受け売りしているだけでしょう。
スピリチュアル思想に傾倒している人たちは、平気で「魂の階層」や「ソウルグループ」という言葉を使ったり、
「現世の試練に耐えることで『魂の位』が上がる」などと言ったりします。
ソフトな語り口ですが、やっていることはランク付けであり、はっきりとした差別です。
そして根拠はありません。本人の思い込みという妄想が根拠です。検証不能です。
何を信じるかはもちろん個人の自由ですが、差別を肯定する論理に対してまで、
社会が寛容である必要があるかは疑問です。
ただし、ほとんどの宗教(※仏教を除く)で、自殺を禁じたり、自殺者を「あの世で罰を受ける」
などと断罪して差別したりしているのは、別にそれが「普遍的な事実である」ことの証左ではなく、
宗教というものが、科学や医学が未発達だった時代に生まれた、現代の目で見れば野蛮で未熟な
思想であるために過ぎないと思われます。
仮にそれが「信者の自殺を防ぐための方便」だったとしても、それで自殺を止められなかった場合には、
死者に鞭打ち、自死遺族の苦しみに追い打ちをかけ、さらには遺族への差別感情をも生みかねない、
両刃の剣的な非常に危険な思想だと言えます。
スピリチュアル系の人たちが同様の主張をするのも、単にそれら既存宗教の思想の影響を受けているか、
もしくは受け売りしているだけでしょう。
スピリチュアル思想に傾倒している人たちは、平気で「魂の階層」や「ソウルグループ」という言葉を使ったり、
「現世の試練に耐えることで『魂の位』が上がる」などと言ったりします。
ソフトな語り口ですが、やっていることはランク付けであり、はっきりとした差別です。
そして根拠はありません。本人の思い込みという妄想が根拠です。検証不能です。
何を信じるかはもちろん個人の自由ですが、差別を肯定する論理に対してまで、
社会が寛容である必要があるかは疑問です。
なお、現代の医学では、自殺者のほとんどが、うつ病や躁うつ病という「脳の病気」に罹患しており、
それに伴う「希死念慮」+「自殺衝動」(非常に強力な衝動であり、理性や精神力で抗うのはほぼ不可能)
という「症状」によって脳をコントロールされた結果、本人の真意に反して自殺行動を取ってしまうことが
明らかになっています。
たとえば、肺炎になると高熱が出るのも、意思の力ではコントロールできません。
そして、肺炎で死亡するケースもありますが、同じように、うつ病になると脳がエラーを起こし、
その結果、自殺という形で死に至ることもあるというだけの話なのです。
自殺というのは、実質的には「病死」なのです。
うつ病さえ寛解すれば、「希死念慮」や「自殺衝動」は嘘のように消え去り、
本人ですら「あの時は、どうしてあんなに死にたかったのか、自分分でも理解できない」、
「あの時、死ななくて本当に良かった」等と述懐します。
しかし、人々にそのような知識がなかった時代には、自殺者は、「弱い人間」、「落伍者」、
「苦しみから逃げた卑怯者」、「遺される人の悲しみを考えない、身勝手で無責任な者」などと
誤解されていたのでしょう(現代でもそのような偏見が少なからず残っているくらいですから)。
そういう、昭和の「精神主義」や「根性論」を彷彿させるような誤った認識のままでは、
自殺を防ぐことも、自死遺族の悲痛を和らげることもできません。
大昔に作られた宗教が説くお伽話を鵜呑みにせず、知識をアップデートする必要があります。
現代においては、うつ病という「脳の病気」に関する正しい知識を持つことによって、
自分や周囲の人々の自殺を、もっと確実に防ぐことが可能なのです。
それに伴う「希死念慮」+「自殺衝動」(非常に強力な衝動であり、理性や精神力で抗うのはほぼ不可能)
という「症状」によって脳をコントロールされた結果、本人の真意に反して自殺行動を取ってしまうことが
明らかになっています。
たとえば、肺炎になると高熱が出るのも、意思の力ではコントロールできません。
そして、肺炎で死亡するケースもありますが、同じように、うつ病になると脳がエラーを起こし、
その結果、自殺という形で死に至ることもあるというだけの話なのです。
自殺というのは、実質的には「病死」なのです。
うつ病さえ寛解すれば、「希死念慮」や「自殺衝動」は嘘のように消え去り、
本人ですら「あの時は、どうしてあんなに死にたかったのか、自分分でも理解できない」、
「あの時、死ななくて本当に良かった」等と述懐します。
しかし、人々にそのような知識がなかった時代には、自殺者は、「弱い人間」、「落伍者」、
「苦しみから逃げた卑怯者」、「遺される人の悲しみを考えない、身勝手で無責任な者」などと
誤解されていたのでしょう(現代でもそのような偏見が少なからず残っているくらいですから)。
そういう、昭和の「精神主義」や「根性論」を彷彿させるような誤った認識のままでは、
自殺を防ぐことも、自死遺族の悲痛を和らげることもできません。
大昔に作られた宗教が説くお伽話を鵜呑みにせず、知識をアップデートする必要があります。
現代においては、うつ病という「脳の病気」に関する正しい知識を持つことによって、
自分や周囲の人々の自殺を、もっと確実に防ぐことが可能なのです。
●瀬川正仁 著『自死 現場から見える日本の風景』(晶文社 2016年)より
実は、カトリックの聖職者の中には、うつ病になり、自ら命を絶つ人も少なくない。
神父にうつ病が多発している背景はいくつかの理由が考えられる。
まず、神父になろうという人には真面目で正義感の強い人が多い。
そのため罪の告白や悩み相談をうけたとき、それをまともに背負ってしまい大きなストレスを抱え込んでしまう。
また、世俗の欲望を否定するストイックな生活を続けることによるストレスも小さくない。
こうした要因が重なって、心の病に陥る神父が思いのほか多いという。
太田義信神父(64)がうつ病と診断されたのは30代のときだった。
これといったきっかけは思い当たらないという。
病気は突然発症し、長い間、強い自死願望と戦い続けてきた。
実は、太田神父も自分がうつ病になるまで、「自死は罪である」というカトリック教会の教えを何の疑いもなく信じてきた。
ところが病気になった途端、突然に触手のようなものが伸びてきて、強い力で死の世界に引き込まれるような体験を何度も味わったという。
こうした苦しみと闘ううち、「自死」は信仰とは別の問題、善悪で裁くべき問題ではないと感じるようになった。
「自死したいという気持ちが強かったころは、駅で電車を待っている時間がとにかく大変でした。
通過する急行電車に飛び込んでしまうのではないかという不安から、いつもセミのように駅舎の柱にしがみついていました」
それから、こう続けた。
「私の場合、自死が罪である、つまり、宗教的に許されない行為だと教え込まれてきたおかげで、
かろうじてこちら側の世界に踏みとどまれたのかもしれません。
そういう意味では、自死を罪であるとするカトリックの教えには感謝しています。
しかし、自死によって命を落としてしまった人を罪人であると決めつける考え方は、受け入れられなくなりました」
いまでも、カトリックの世界には「自死」は罪であるという考えが根強い。
しかし、近年、教会内部でも自死者に対する名誉回復の動きが進んでいる。
実は、カトリックの聖職者の中には、うつ病になり、自ら命を絶つ人も少なくない。
神父にうつ病が多発している背景はいくつかの理由が考えられる。
まず、神父になろうという人には真面目で正義感の強い人が多い。
そのため罪の告白や悩み相談をうけたとき、それをまともに背負ってしまい大きなストレスを抱え込んでしまう。
また、世俗の欲望を否定するストイックな生活を続けることによるストレスも小さくない。
こうした要因が重なって、心の病に陥る神父が思いのほか多いという。
太田義信神父(64)がうつ病と診断されたのは30代のときだった。
これといったきっかけは思い当たらないという。
病気は突然発症し、長い間、強い自死願望と戦い続けてきた。
実は、太田神父も自分がうつ病になるまで、「自死は罪である」というカトリック教会の教えを何の疑いもなく信じてきた。
ところが病気になった途端、突然に触手のようなものが伸びてきて、強い力で死の世界に引き込まれるような体験を何度も味わったという。
こうした苦しみと闘ううち、「自死」は信仰とは別の問題、善悪で裁くべき問題ではないと感じるようになった。
「自死したいという気持ちが強かったころは、駅で電車を待っている時間がとにかく大変でした。
通過する急行電車に飛び込んでしまうのではないかという不安から、いつもセミのように駅舎の柱にしがみついていました」
それから、こう続けた。
「私の場合、自死が罪である、つまり、宗教的に許されない行為だと教え込まれてきたおかげで、
かろうじてこちら側の世界に踏みとどまれたのかもしれません。
そういう意味では、自死を罪であるとするカトリックの教えには感謝しています。
しかし、自死によって命を落としてしまった人を罪人であると決めつける考え方は、受け入れられなくなりました」
いまでも、カトリックの世界には「自死」は罪であるという考えが根強い。
しかし、近年、教会内部でも自死者に対する名誉回復の動きが進んでいる。
一方、差別的な戒名などによって、長年「自死」を差別してきた日本の仏教界も、日本社会における自死者の急増を受け、
これまでの「自死」に対する向き合い方を見直そうという動きが広まっている。
宮城県にある慈恩寺の住職、樋口法生さん(46)は、子どもを亡くした親の分かち合いの会「つむぎの会」を定期的に開催している。
実は信徒の中にも、「自死」だけでなく、不慮の事故で亡くなった人は往生できないのではないかという不安をもつ人がおり、
そうした不安を取り除くためにはじめた法要だ。
死に方や動機に関係なく、死者の魂はすべて極楽浄土に行けることを伝えることで、遺族の苦しみを軽減するのが目的である。
樋口住職が所属する浄土宗には死者を死に方によって差別する考えはない。
そのため樋口さん自身も、「自死」を差別する気持ちはなかった。
それでも僧侶になりたてのころは、自死遺族の悲しむ姿を見ていると、
「なぜ、まわりの人の気持ちを考えなかったのだろうか」と、
自死者を非難したくなる気持ちを持ったこともあったという。
だが、多くの自死者の葬儀をおこなううち、「自死」が世間でいわれているような「身勝手な死」なのではなく、
追いつめられた果ての死であることに気づくようになった。
そして、自戒の念もこめて、自死差別によって遺族が苦しまないための活動もはじめたという。
「仏教思想の中に自死を差別する考えはありません。ただ、『自死」を自分で自分を殺める行為と解釈し、
殺生を禁じる仏教の教えに反すると考える僧侶が少なくないのも事実だと思います」
これまでの「自死」に対する向き合い方を見直そうという動きが広まっている。
宮城県にある慈恩寺の住職、樋口法生さん(46)は、子どもを亡くした親の分かち合いの会「つむぎの会」を定期的に開催している。
実は信徒の中にも、「自死」だけでなく、不慮の事故で亡くなった人は往生できないのではないかという不安をもつ人がおり、
そうした不安を取り除くためにはじめた法要だ。
死に方や動機に関係なく、死者の魂はすべて極楽浄土に行けることを伝えることで、遺族の苦しみを軽減するのが目的である。
樋口住職が所属する浄土宗には死者を死に方によって差別する考えはない。
そのため樋口さん自身も、「自死」を差別する気持ちはなかった。
それでも僧侶になりたてのころは、自死遺族の悲しむ姿を見ていると、
「なぜ、まわりの人の気持ちを考えなかったのだろうか」と、
自死者を非難したくなる気持ちを持ったこともあったという。
だが、多くの自死者の葬儀をおこなううち、「自死」が世間でいわれているような「身勝手な死」なのではなく、
追いつめられた果ての死であることに気づくようになった。
そして、自戒の念もこめて、自死差別によって遺族が苦しまないための活動もはじめたという。
「仏教思想の中に自死を差別する考えはありません。ただ、『自死」を自分で自分を殺める行為と解釈し、
殺生を禁じる仏教の教えに反すると考える僧侶が少なくないのも事実だと思います」
宗教は悪用すればカルト、善用すれば人々を導き救うツールとなる
とはいえ、「騙されやすい」「信じやすい」性質、言い換えれば「虚構を信じることができる能力」こそが、
実は人類だけが持つ最高の特質のひとつである…というのが悩ましいところでもあります。
地球には、現在1種類の人類しかいません。言わずと知れた、私たちホモ・サピエンスです。
しかし、かつて地球上に現れた人類は、ホモ・サピエンスだけではありませんでした。
他の生物と同様に、人類の進化の道筋は1本ではなく、さながら天に向かって成長する樹木のように、
いくつもの枝別れをし、さまざまな形態的特徴をもつ人類が誕生しました。
アウストラロピティクス、北京原人、ネアンデルタール人、ホモ・エレクトス、ホモ・フローレス…etc.
そして、あるものは途絶え、あるものは子孫を残しました。最後まで生き残ったのが、私たちサピエンスです。
かつて、たくさんの種類の人類が存在した地球上で、何故私たちだけが生き残ったのでしょうか?
たとえば、頑強な骨格・筋肉と優れた運動能力を持っていたネアンデルタール人とホモ・サピエンスが1対1で戦えば、
ホモ・サピエンスには全く勝ち目が無かっただろうと言われています。
そのように、相対的には特に身体的能力が抜きんでたわけではなかった我々の祖先の脳に、およそ7万年前、
“認知革命”が起きました。
何故かサピエンスには、「実在しないものを信じる能力」が身についたのです。
認知革命の始まりは、噂話をして、それを信じるようになったことです。
つまり、「あそこのあいつはめちゃくちゃ強いぞ」とか「あいつとあいつは仲が悪いらしい」と言った具合です。
他の人類種は、サピエンスのように噂話を信じない(そもそも噂話もしなかったのかもしれない)ので、
自分の目で見たものしか信用しません。つまり、全員が親しく知っている集団しか作れません。
そういう集団は、最大でも50人程度にしかならないと言われています。
一方、サピエンスの場合は、「あの人すごいらしいよ」、「あの人の言うとおりにすればネアンデルタール人にも勝てるよ」
などと言われれば信じることができるので、その話を共有するだけで、見知らぬ者同士でも協力し合うことができました。
そのおかげでサピエンスは、当時でも最大150人規模の集団が作れたそうです。
こうして、近隣の他の集団や、遠く離れた場所にある集団とも団結できるようになったサピエンスは、
大集団でネアンデルタール人を襲い始め、ついには滅ぼしてしまったのです。
その“認知革命”以降は、言わずもがな、国家、貨幣、宗教という、人類史最強の「虚構」が世界を構築し続け、
都合が良いと集団が認識すれば、時には真逆にも価値観を変えながら(フィクションは実在するものでないので、
その時の権力者やリーダーが新しいフィクションを柔軟に作りだすことができる)、歴史は今に続いています。
フランス革命が起きたり、明治新政府ができたりしたのは、フィクションが切り替わって、多くの人がそれに賛同した
(新しいフィクションを信じた)ということに他なりません。
実は人類だけが持つ最高の特質のひとつである…というのが悩ましいところでもあります。
地球には、現在1種類の人類しかいません。言わずと知れた、私たちホモ・サピエンスです。
しかし、かつて地球上に現れた人類は、ホモ・サピエンスだけではありませんでした。
他の生物と同様に、人類の進化の道筋は1本ではなく、さながら天に向かって成長する樹木のように、
いくつもの枝別れをし、さまざまな形態的特徴をもつ人類が誕生しました。
アウストラロピティクス、北京原人、ネアンデルタール人、ホモ・エレクトス、ホモ・フローレス…etc.
そして、あるものは途絶え、あるものは子孫を残しました。最後まで生き残ったのが、私たちサピエンスです。
かつて、たくさんの種類の人類が存在した地球上で、何故私たちだけが生き残ったのでしょうか?
たとえば、頑強な骨格・筋肉と優れた運動能力を持っていたネアンデルタール人とホモ・サピエンスが1対1で戦えば、
ホモ・サピエンスには全く勝ち目が無かっただろうと言われています。
そのように、相対的には特に身体的能力が抜きんでたわけではなかった我々の祖先の脳に、およそ7万年前、
“認知革命”が起きました。
何故かサピエンスには、「実在しないものを信じる能力」が身についたのです。
認知革命の始まりは、噂話をして、それを信じるようになったことです。
つまり、「あそこのあいつはめちゃくちゃ強いぞ」とか「あいつとあいつは仲が悪いらしい」と言った具合です。
他の人類種は、サピエンスのように噂話を信じない(そもそも噂話もしなかったのかもしれない)ので、
自分の目で見たものしか信用しません。つまり、全員が親しく知っている集団しか作れません。
そういう集団は、最大でも50人程度にしかならないと言われています。
一方、サピエンスの場合は、「あの人すごいらしいよ」、「あの人の言うとおりにすればネアンデルタール人にも勝てるよ」
などと言われれば信じることができるので、その話を共有するだけで、見知らぬ者同士でも協力し合うことができました。
そのおかげでサピエンスは、当時でも最大150人規模の集団が作れたそうです。
こうして、近隣の他の集団や、遠く離れた場所にある集団とも団結できるようになったサピエンスは、
大集団でネアンデルタール人を襲い始め、ついには滅ぼしてしまったのです。
その“認知革命”以降は、言わずもがな、国家、貨幣、宗教という、人類史最強の「虚構」が世界を構築し続け、
都合が良いと集団が認識すれば、時には真逆にも価値観を変えながら(フィクションは実在するものでないので、
その時の権力者やリーダーが新しいフィクションを柔軟に作りだすことができる)、歴史は今に続いています。
フランス革命が起きたり、明治新政府ができたりしたのは、フィクションが切り替わって、多くの人がそれに賛同した
(新しいフィクションを信じた)ということに他なりません。
生命の進化を遡ると、生命誕生から約20億年間は「無死」の世界でした。
むろん、事故や他の生物に捕食されることによって死ぬことは当然ありましたが、
「寿命で死ぬ」という現象はありませんでした。
いわゆる「一倍体」と呼ばれる大腸菌のような生物は、遺伝子のセットをひとつしか持たず、
その遺伝子を複製して二倍にした後に分裂を起こし、それぞれがまた“一倍体”になる
…という増殖の仕方をします。
個体の遺伝子をそのままコピーして、倍、倍、倍と増えてゆく ―― そこには親も子もなく、
死も存在しませんでした。
しかし、今から約15億年前に「二倍体細胞生物」(遺伝子の組み合わせを二つ有する生物)、
すなわち、父親と母親から受け継いだ遺伝子を両方持っている生物が出現し、それに伴って初めて
「寿命による死」という現象が生じました。
二倍体細胞生物が生きている間、その生命の元であるDNAは、活性酸素や食物の中の発がん性物質
などのストレスによって傷付き、この傷が時問とともに蓄積されて行きます。
生殖細胞が傷を負うと、それは子孫に引き継がれます。
また、傷付いた古い個体(親)と傷を受け継いだ子孫が再び合体する可能性もあります。
すると、集団の中に傷が蓄積される「遺伝的荷重」が起こり、種が絶滅する可能性が非常に高くなります。
これを安全に回避するためには、ある程度の時間生きてDNAが傷ついた個体は、
そのDNAを「個体ごと消去する」システムを作っておけば良いわけです。
つまり、再生系と非再生系の体細胞のどちらにも、「ある程度の期間が経つと死ねるプログラム」
を書き込んでおけば、遣伝的荷重による種の絶滅を防げます。
むろん、事故や他の生物に捕食されることによって死ぬことは当然ありましたが、
「寿命で死ぬ」という現象はありませんでした。
いわゆる「一倍体」と呼ばれる大腸菌のような生物は、遺伝子のセットをひとつしか持たず、
その遺伝子を複製して二倍にした後に分裂を起こし、それぞれがまた“一倍体”になる
…という増殖の仕方をします。
個体の遺伝子をそのままコピーして、倍、倍、倍と増えてゆく ―― そこには親も子もなく、
死も存在しませんでした。
しかし、今から約15億年前に「二倍体細胞生物」(遺伝子の組み合わせを二つ有する生物)、
すなわち、父親と母親から受け継いだ遺伝子を両方持っている生物が出現し、それに伴って初めて
「寿命による死」という現象が生じました。
二倍体細胞生物が生きている間、その生命の元であるDNAは、活性酸素や食物の中の発がん性物質
などのストレスによって傷付き、この傷が時問とともに蓄積されて行きます。
生殖細胞が傷を負うと、それは子孫に引き継がれます。
また、傷付いた古い個体(親)と傷を受け継いだ子孫が再び合体する可能性もあります。
すると、集団の中に傷が蓄積される「遺伝的荷重」が起こり、種が絶滅する可能性が非常に高くなります。
これを安全に回避するためには、ある程度の時間生きてDNAが傷ついた個体は、
そのDNAを「個体ごと消去する」システムを作っておけば良いわけです。
つまり、再生系と非再生系の体細胞のどちらにも、「ある程度の期間が経つと死ねるプログラム」
を書き込んでおけば、遣伝的荷重による種の絶滅を防げます。
つまり、もともと生物というのは、外因さえ無ければ「永遠に生き続ける」存在であり、
死ぬことは不可避な現象ではありませんでしたが、二倍体細胞生物は「有性生殖」とセットで
「死」というシステムをわざわざ導入せざるを得なかったのです。
こうして、様々な個体の遺伝子をシャッフルすることによる多様性と進化のスピードを得た代わりに、
“寿命”がプログラムされて、生殖を終えた個体はいずれ死ぬことが運命づけられてしまったのです。
それが二倍体細胞生物にとっては、種全体の存続のために不可欠な選択であったとはいえ、
それぞれの個体の立場では死ぬことは本意ではなく、どこまで行っても悲劇でしかありません。
誰もが「生まれながらにして死刑囚」であるという残酷な現実。
有性生殖においては、同じ遺伝子の組成をもった個体は二度と生まれてきません。
私たちひとりひとりが、唯一無二のかけがえのない存在なのです。
それなのに、期限が来たら否応なく消去されてしまうという理不尽さ…。
そのため、これまでの人類の文化という文化は、「死と折りあいをつける」という問題に、
膨大な量の知的努力を注ぎこんできました。
大半の宗教は、死についての手のこんだ嘘を築きあげ、死をじっさいとは違うものに見せかけてきました。
―― もっとも、人生の方について嘘をついた宗教も数多いですが。
そして、哲学の中でもっとも宗教と縁遠いものでさえ、『死が最後には勝利する』と主張せざるを得なかったので、
歪んだものになってしまいました。
どんな小さ子どもにも、死は無意味で、不意に起こる、不当な、言葉にできないほど嫌なものであることはわかります。
だとしたら、その逆を信じることが、「高邁」な「大人」の思想である…と考える人が多いのでしょう。
作家たちも、何世紀ものあいだ、「不死人が死にあこがれ、『殺してくれ』と懇願する」という、
ひとりよがりで禁欲的な寓話を書いて、不死でない自分をなぐさめてきたことは周知のとおりです。
死ぬことは不可避な現象ではありませんでしたが、二倍体細胞生物は「有性生殖」とセットで
「死」というシステムをわざわざ導入せざるを得なかったのです。
こうして、様々な個体の遺伝子をシャッフルすることによる多様性と進化のスピードを得た代わりに、
“寿命”がプログラムされて、生殖を終えた個体はいずれ死ぬことが運命づけられてしまったのです。
それが二倍体細胞生物にとっては、種全体の存続のために不可欠な選択であったとはいえ、
それぞれの個体の立場では死ぬことは本意ではなく、どこまで行っても悲劇でしかありません。
誰もが「生まれながらにして死刑囚」であるという残酷な現実。
有性生殖においては、同じ遺伝子の組成をもった個体は二度と生まれてきません。
私たちひとりひとりが、唯一無二のかけがえのない存在なのです。
それなのに、期限が来たら否応なく消去されてしまうという理不尽さ…。
そのため、これまでの人類の文化という文化は、「死と折りあいをつける」という問題に、
膨大な量の知的努力を注ぎこんできました。
大半の宗教は、死についての手のこんだ嘘を築きあげ、死をじっさいとは違うものに見せかけてきました。
―― もっとも、人生の方について嘘をついた宗教も数多いですが。
そして、哲学の中でもっとも宗教と縁遠いものでさえ、『死が最後には勝利する』と主張せざるを得なかったので、
歪んだものになってしまいました。
どんな小さ子どもにも、死は無意味で、不意に起こる、不当な、言葉にできないほど嫌なものであることはわかります。
だとしたら、その逆を信じることが、「高邁」な「大人」の思想である…と考える人が多いのでしょう。
作家たちも、何世紀ものあいだ、「不死人が死にあこがれ、『殺してくれ』と懇願する」という、
ひとりよがりで禁欲的な寓話を書いて、不死でない自分をなぐさめてきたことは周知のとおりです。
>>24
長文って読みたくないですよね。
文字ばかりがズラッと並んでるのを見ると、うんざりするという人も多いんじゃないでしょうか。
個人的には長文を読まないこと自体が悪いことだとは思っていないのですが、もし、
「自分はバカだから、長い文章を読んでも理解できないはずだ」という先入観によって
長文を読まないという選択をしてるのだとしたら、それは非常にもったいないことだと思います。
というのも、長文というのは基本的に、短文よりも理解しやすいことが多いからです。
まあ確かに、同じ内容をだらだらと繰り返すだけの悪文であるケースも無いとは言いませんが、
ほとんどの長文は、誰にでもわかるような内容である場合が多いです。
なぜなら、文章が長くなる最大の理由は「相手がバカでも理解できるように、言葉を尽くしている」
というものだからです。
簡単な例は辞書です。
辞書で言葉を引くと、その言葉の意味が、違う言葉でクドクドと説明してありますよね。
「熟語一つの説明に長文が一つ付いてる」なんてこともざらにあります。
その言葉の意味を知ってれば熟語一つで済むかもしれませんが、その言葉を知らない人に同じことを伝えたい時は、
細かくかみ砕いたり、辞書の説明のように、違う言葉で言い換える必要があります。
そして、短くてコスパの良い言葉には、知識的なハードルがあることのほかにもう一つ欠点があります。
それは、いろいろな意味を包括している反面、ニュアンスの違いに左右されがちなことです。
難しい言葉だらけの文章を読んでいると、「なんだかふわふわした文章だな」というイメージを抱きますよね。
このような「意味の揺らぎ」を抑えるために、文脈を文章で補完していく場合にも、自然と長文になってしまいます。
…とか何とか言いながら、「長文は分かりやすい文章であることが多いので、面倒くさくも怖くもないよ」
ということを説明するためだけに、結局、こんなに文字数を使っちゃいましたね。
「バカにこそ読んでほしい長文をバカまで届けるためには、まず長文の良さを長文で説明しなければいけない」
という矛盾に、言語というコミュニケーション・ツールの限界を感じます。
長文って読みたくないですよね。
文字ばかりがズラッと並んでるのを見ると、うんざりするという人も多いんじゃないでしょうか。
個人的には長文を読まないこと自体が悪いことだとは思っていないのですが、もし、
「自分はバカだから、長い文章を読んでも理解できないはずだ」という先入観によって
長文を読まないという選択をしてるのだとしたら、それは非常にもったいないことだと思います。
というのも、長文というのは基本的に、短文よりも理解しやすいことが多いからです。
まあ確かに、同じ内容をだらだらと繰り返すだけの悪文であるケースも無いとは言いませんが、
ほとんどの長文は、誰にでもわかるような内容である場合が多いです。
なぜなら、文章が長くなる最大の理由は「相手がバカでも理解できるように、言葉を尽くしている」
というものだからです。
簡単な例は辞書です。
辞書で言葉を引くと、その言葉の意味が、違う言葉でクドクドと説明してありますよね。
「熟語一つの説明に長文が一つ付いてる」なんてこともざらにあります。
その言葉の意味を知ってれば熟語一つで済むかもしれませんが、その言葉を知らない人に同じことを伝えたい時は、
細かくかみ砕いたり、辞書の説明のように、違う言葉で言い換える必要があります。
そして、短くてコスパの良い言葉には、知識的なハードルがあることのほかにもう一つ欠点があります。
それは、いろいろな意味を包括している反面、ニュアンスの違いに左右されがちなことです。
難しい言葉だらけの文章を読んでいると、「なんだかふわふわした文章だな」というイメージを抱きますよね。
このような「意味の揺らぎ」を抑えるために、文脈を文章で補完していく場合にも、自然と長文になってしまいます。
…とか何とか言いながら、「長文は分かりやすい文章であることが多いので、面倒くさくも怖くもないよ」
ということを説明するためだけに、結局、こんなに文字数を使っちゃいましたね。
「バカにこそ読んでほしい長文をバカまで届けるためには、まず長文の良さを長文で説明しなければいけない」
という矛盾に、言語というコミュニケーション・ツールの限界を感じます。
宗教という虚構を信じ宗教という偶像を崇拝する衆生
目くそ鼻くそを嗤う他宗批判
目くそ鼻くそを嗤う他宗批判
信仰そのものは特段悪いことではない。
自己を確実に認識し
客観的な視点で信仰と接していれば問題無い。
けど、バカはそうはいかない。
バカは自己が信仰に飲み込まれてしまう。
そうなったらもう生ける屍。
「我々は◯◯によって生かされてる!」
って言う人、時々いるでしょ?
そうなったら人間は終わり。無価値。
道端の犬の糞より役に立たない
ただのゴミ。
自己を確実に認識し
客観的な視点で信仰と接していれば問題無い。
けど、バカはそうはいかない。
バカは自己が信仰に飲み込まれてしまう。
そうなったらもう生ける屍。
「我々は◯◯によって生かされてる!」
って言う人、時々いるでしょ?
そうなったら人間は終わり。無価値。
道端の犬の糞より役に立たない
ただのゴミ。
『宗教なんか見抜いている俺様カッコイイ教』の教祖様が一杯いるなぁw
神と宗教を混同してはならない
神は自然界を創造した造物主だが、宗教は人間が作った虚構であり偶像である
神は自然界を創造した造物主だが、宗教は人間が作った虚構であり偶像である
かつてマルクスは「宗教はアヘンなり」と評したが、これは正しくはない。
💀一切の宗教は人間が作った「虚構」であり「方便」であり、とどのつまりの縋りつく都合のいい「偶像」に過ぎない。
これこそが宗教の真の姿と言えよう。
宗教とはきわめてドメスティックなものでしかなく、世界宗教と言えどもそれとは無関係に生きられしその懲罰もない。
キリスト教・イスラム教・仏教・その他を信じなくてもその戒律を無視しても、なんら懲罰はなく普通に健全に生きられるのがその証明だろう。
実際「無宗教」であっても何ら不都合はないのがその良い証明でもある。
宗教はそれを信じた者にこそ、その人心を呪縛し戒律で支配され虚構を真理と思い込むだけのものでしかない。
こうした宗教という虚構の偶像を信じ崇拝する限り、この地上から専制と隷従、圧迫と偏狭、破壊と殺戮、偽善と欺瞞はなくならない。
神の偶像崇拝禁止の意味を能々考えるべきだろう。
崇拝すべきは自然界を創造した神である。
💀一切の宗教は人間が作った「虚構」であり「方便」であり、とどのつまりの縋りつく都合のいい「偶像」に過ぎない。
これこそが宗教の真の姿と言えよう。
宗教とはきわめてドメスティックなものでしかなく、世界宗教と言えどもそれとは無関係に生きられしその懲罰もない。
キリスト教・イスラム教・仏教・その他を信じなくてもその戒律を無視しても、なんら懲罰はなく普通に健全に生きられるのがその証明だろう。
実際「無宗教」であっても何ら不都合はないのがその良い証明でもある。
宗教はそれを信じた者にこそ、その人心を呪縛し戒律で支配され虚構を真理と思い込むだけのものでしかない。
こうした宗教という虚構の偶像を信じ崇拝する限り、この地上から専制と隷従、圧迫と偏狭、破壊と殺戮、偽善と欺瞞はなくならない。
神の偶像崇拝禁止の意味を能々考えるべきだろう。
崇拝すべきは自然界を創造した神である。
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