旧仮名遣いでの読みはにひくら。はじめ新羅郡(しらぎぐん、しらぎのこおり)として設けられ、字を新座郡(しらぎぐん、しら
ぎのこおり)と改めてから、その字に引きずられてにいくらの読みが正式となったと考えられる。時代によっては志楽・志楽木・志
羅木(しらぎ)、志木(しき)、新倉(にいくら)などとも表記し、にいざと読まれたこともある。
天平宝字2年(758年)8月24日に、朝廷は帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の空いた場所に移した。これが新羅
郡の始まりという。これより前、武蔵国には持統天皇元年(687年)と4年(690年)にも新羅人が移されていた。
宝亀11年(780年)には新羅郡の人沙良真熊らに広岡造の姓を賜った。この後いつ改称されたかは不明だが、平安時代の『延喜式』
には「新座郡」と記録されており、『和名類聚抄』では新座と書いて「にひくら」と読ませるようになった。その郷は志木郷と余戸で、ごく小さな郡であった。
郡衙跡については、『新編武蔵風土記稿』に午傍山が新羅王居跡と記されているが時代が合わず、須恵器が出土した和光市の花の木遺跡が有力視されている。
また新編武蔵風土記稿には「新倉郡」(にいくら)と呼ばれるようになり、さらに「新座郡」(にいざ)になったとある。
明治時代の郡役所は北足立郡の浦和町に共同で置かれていた。1896年(明治29年)3月29日、郡制施行により全域が北足立郡に編入されて消滅した。
在日の皆さん、特に在日韓国人の皆さんは、百済郡、新羅郡を研究されたら、いかがでしょうか?
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