精神力は、なにも人から羨望されるような偉業によって育まれるとも限らない。
シヴァ神に誓いを立てて一生右手を上げ続けているインドのサドゥなどは、
全く非合理なことをやってるのが明らかだし、実際に手も壊しているが、
苦行に耐えることでの精神力の修養自体はそれなりに伴っているだろう。
もっとひどい例を挙げれば、暴風雨の中で自転車を傘差し運転し続けることだって
相当な苦行になるから、やりようによっては人並み以上の精神力が養われるかも知れん。
ろくでもない上に違法な行為だから決して勧められなどはしないが、
極端な場合にはその程度のことでも精神力が鍛えられ得る。
逆に、いかにも偉大なことだと扱われるような大きな仕事の遂行だとか、
スポーツでの偉業だとかも、すでに慣れきっている反復作業であったり、
体力的技術的に余裕のある範囲で行われたことならば、
それで精神力までもが養われたとはならない。
だから「精神力の持ち主=偉人などではない」とも言えなくはないわけだが、
精神力がただそれだけでも何らかの偉業を挙げる原動力になるものだから、
「偉業を挙げられる可能性がある相手」として尊重すべきだということは言える。
自分に精神力がないのなら、自分にはできないことを成し遂げられる相手として。
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