>>120 これが「思索的内省」の真髄であり、この能力こそが人間の自由意志を構成している。
なぜ人間は、午後5時にあの人と会おうと思ったことをその時間付近に思い出せるのか。
それまでは間違いなく忘れているはずだ。そういう事が山ほどある。たまには忘れっぱなしになるが、
大抵の重要なことは、勝手に思い出す。
逆に何も思い出さない、何も思い浮かべないようにしようとしても
寧ろそちらの方が難しい。常に何かが思い浮かぶ。昨日は楽しかったな。今晩何を食べよう。あのニュースはひどい。
果たして自分が思い浮かべたのか、勝手に思いついたのか。そこに明確な違いはつけられるだろうか?
無意識の領域では常に様々な想起(ニューロンの発火)が起こっているが、大抵の情報は意識に登る前にシャットアウトされる。
だから我々は日常生活を送れる。
しかしたまには想起された事柄について連想ゲーム的に思索をめぐらしてしまい、時間を無駄にしてしまう事がある。
意識領域のやってる事、出来ることはこの想起にたいしてそれを排除するか、思索を巡らすかの判断位のもの。
しかし発想を得る時には帰ってこの意識の判断機能が邪魔になったりもする。
発想というのは案外何もしていない時にふと浮かんでくるものだ。
認知的脱抑制というものがる。人間の判断機能、無意識から意識への関門、オートフィルタ機能を弱める事で発想が思いつきやすくなる状態の事だ。
実は普通の人間でもこの機能を人為的に一時的に弱めると様々な着想が得られる事が確かめられてる。
意識的にこの抑制を外すのは難しい。
果たして思いついたのか、思いつかされたのか?
自由意志に基づき行動することの重要性を否定する気はないが、どうにも不可思議なことだらけという事は頭の片隅に置いておいてほしい。
自由意志がないとしても、自由意志が無いように行動することと、自由意志がないという認識があるという事はまた別の話なのだ。
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