「ボケの美しさを発見」したのは日本人として誇っていいよ。
1980年代にその議題が社会化して(秋山庄太郎だったっけ?言い出しっぺ)、カールツァイス財団が褒めた。
もうひとつ、
ハイエストとローエストで「階調がブレイクしていくニュアンス」が美しい。という日本の評価も財団が感心していた。
絞り込んだ状態では日本製もほとんど変わりはないのに、
解放近辺でずば抜けて「美しい」描写をすることがツァイスの魅力だったんだが、その理由が指摘されたのも日本。
レンズの結像能力には限界があるし、
スペクトル収差系を重視すれば歪曲収差系の修正が難しくなるとか、
あっちを取ればこっちが…という問題も山積みだ。
どこで折り合いをつけるか? ってとこで、技術屋の美的な素養が出てくる。
そこは歴史や文化の厚みに違いが出てくるんだろうね。
日本でもフジやシグマが、そこを大切にしたレンズを作るようになってきたのも時代経過のせいだろう。
もちろん、ブランド力で越えられないということはある。
が、それはレンズのせいではない、過度であるならユーザの品質問題。
戻ってしまうけれども、カイシャと財団の違いは商品開発に大きな違いを作る。
「コスト&マーケット」の問題がね。そこがいちばん大事な会社、あまり考えなくても良い財団、
だから日本のカイシャの技術屋は羨ましいだろうといったわけ。
ツァイスの領分に難しく踏み込まなくても、営業力では圧倒的に凌駕しているしね。
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